浅草に靴屋さんが多いのはなぜ?

浅草に靴屋さんが多いのはなぜ?

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東京・浅草には革靴製造をはじめとする皮革産業に携わる企業が多数あります。浅草は「靴の町」として繁盛を極めた時代があり、今でも地場産業として活躍しています。なぜでしょうか? その大きな理由の一つに弾左衛門(1823~1889)の功績が上げられます。弾左衛門は後に直樹と改名しました。

弾の家は、鎌倉時代から続く名家で、代々時の権力者から皮革取締りの特権を与えられていました。徳川幕府は関八州(武蔵、上野、下野、常陸、上総、下総、安房、相模)をはじめ甲斐、伊豆、駿河、陸奥を加えた十二カ国の皮革取締りの特権を許可しました。明治維新後も、その特権は従来どおり維持され、大きな勢力を誇っていました。弾は浅草亀岡町(現在の台東区今戸)に千坪以上の広大な邸宅を構え「直樹役所」と称していました。事実、その職権は町奉行に隷属し、その職を助け、関八州の町里を司り、自ら牢獄を備えて悪徒を収監する権がありました。屋敷の広大さは大名屋敷並といわれ、加えて三千石の収穫が上がる田地を所有していたのです。

軍靴の需要が拡大することを予感した弾直樹は、1871(明治4)年に滝ノ川に皮革・靴伝習所を開き、3人の中国人を靴作りの教師として雇いました。また製靴技師のアメリカ人チャールス・ヘンニンゲルを雇用しました。ヘンニンゲルの指導の下に製造された造靴用の革はチャールスにちなみ「茶利皮」と名づけられました。弾は、1872(明治5)年1月には隅田川に水利を求めて工場を浅草橋場町に移し、「軍靴12万足、十ヵ年納入」を受注すると製造工場を拡張し、靴工見習451名を募集して養成に熱中しました。しかし十ヵ年契約は一年を待たずに中止となり、弾の事業は決定的な打撃をこうむりました。その後事業は、三井の北岡文平が監督に入り、名称も「弾北岡組」と呼ばれるようになりました。事業は製革と製靴に二分され、製靴部門は同年12月浅草亀岡町にある弾の邸内に移されました。

巨費を投じた事業が頓挫して弾の晩年はさびしいものでしたが、病床で「数百人の靴工が巣立って全国に製靴法を伝えている。私の本望は達した」といってこの世を去っていったと言われています。弾は皮革産業の基盤を築いただけにとどまりましたが、周辺には関連する企業が集まり、弾のもとから数多の靴工が育っていったのです。

[参考文献] 靴産業百年史・日本靴連盟編、かわとはきもの・靴の歴史散歩(稲川實著)、皮革産業沿革史・皮革産業沿革史編纂委員会編、ニッポン靴物語・山川暁著